浄土真宗本願寺派における葬儀とは
上記の臨終勤行から還骨勤行までの全てを葬送儀礼(葬儀)としています。
6.火屋勤行、7.収骨勤行は、斎場(火葬場)の都合により行う事が出来ない場合がございます。
地域により、5.葬場勤行は8.還骨勤行の後に行います。
浄土真宗の葬儀の意義は、阿弥陀仏の本願に信心をいただき、念仏申させていただく者は、阿弥陀仏に摂め取られ、現生のいのち終わるとともに、阿弥陀仏のお浄土に往生させていただきます。
故人も遺された者も、阿弥陀仏に摂め取られていることに対し、「報恩感謝」の思いで、仏縁を大切に人生を歩ませていただくという法要です。
かけがえのない方を亡くした悲しみとともに、亡くなられた方が命をかけ、我々に仏法にあうご縁を作ってくださったことへの、感謝からの勤行でもあります。
臨終勤行は本来、いのち終わろうとしている本人が行う、阿弥陀仏への仏恩報謝の最後のお勤めの事です。
現在では、行うことが難しく、ほぼ行うことができません。
ですので、本人に代わり、住職が親族と共にお勤めをします。
枕経と混同される事がありますが、枕経は故人の本人確認(江戸期の寺請制度・寺檀制度)の名残で、お他宗の勤行です。
宗派によっては追善供養の勤行として行われています。
納棺勤行は御遺体を棺に納めたのちに行う勤行です。
納棺する際、湯灌(※)をし、清潔な白布で覆い、手は胸の前に合掌させます。
納棺後、棺中に尊号を収め、棺に七条袈裟を掛け、仏前(正面を避け)に御安置します。
(※)現在の湯灌とは異なり“体を拭く”ことです。
映画「おくりびと」の湯灌のイメージが一般的になっていますが、あの映画のように儀式的に行うものではありません。
湯灌を商品として売るために、映画内で“丁寧さと儀式化させる”ことにより『湯灌=高額商品』にさせています。
通夜勤行は、葬場勤行までの夜毎に、近親者をはじめ有縁の人々が仏前に集い、夜を通して行う勤行です。
故人の生前の厚情に感謝しつつ、後に遺された者も、阿弥陀仏に等しく摂め取られていることに対して、仏恩報謝の思いから行う勤行です。
現在では、通夜に参列することが当たり前のようになっています。
通夜は本来、親族親類のみで行うもので、他人が参列することは失礼極まりない非常識な行為でした。
また、「通夜に焼香しに行く」と考えられている方が多くいらっしゃいます。「ただ焼香しに行く」という行為は自己満足でしかありません。
故人が自らのいのちをかけて、仏法にあう機会をお作り下さっているのです。
出棺勤行は、御遺体を収めた棺を、葬場に送り出すにあたって行う、勤行です。
自宅で通夜までを行い、葬場(火葬場・墓所)へ出棺される前。
または、御遺体をご自宅で安置し、通夜・葬場を行う葬場へ出棺される前に行われていました。
1.〜8.まで順番に行われる場合、病院から直接、葬儀社の保管庫に御遺体を安置することが一般的になり、出棺勤行と葬場勤行がそれぞれ別の場所で行われることが少なくなっています。
葬場とは、葬場勤行を勤めるための場です。
旧来は、火葬を行う場所に別堂(仮の建物)を設けて葬場として行われていました。
現在のイメージに当てはめると、自宅で通夜を行い、出棺勤行の後に火葬場(斎場)に出棺し、火葬場の式場で葬場勤行を勤めます。
1.〜8.まで順番に行われる場合、出棺勤行と葬場勤行は続けて行われています。
火屋勤行とは火葬場で御遺体を火葬する際に行う勤行です。
収骨勤行とは、収骨した遺骨を骨壺に納め、御本尊の前に安置し行う勤行です。
現在では、火葬場収骨室の形状、火葬場の都合により、行うことが難しくなっています。
還骨とは、火葬場から遺骨を持ち還ることです。
持ち還った遺骨を御本尊の前に安置し行う勤行です。
ご自宅、または寺院で行います。
命日から数えで7日ずつ7回の法要です。
中陰と呼ばれていますが、中陰とは一般的に「死と(次の)生の間」と考えられ、「追善の法要を勤める事により功徳を積み、良いところに生まれる」とされています。
『浄土真宗の葬儀の意義』にもありますように、阿弥陀仏の本願に信心をいただき、念仏申させていただく者は、阿弥陀仏に摂め取られ、現生のいのち終わるとともに、阿弥陀仏のお浄土に往生させていただきます。
故人も遺された者も、阿弥陀仏に摂め取られていることに対し、「報恩感謝」の思いで、仏縁を大切に歩ませていただくという法要です。
「四十九日が三月にまたがると良くない」
三月→(浄土に)未着き→(死者の霊魂が)身憑き
「四十九日までに埋葬しないと…」
「法要は遅れてはいけない」
など、俗信・迷信がありますが、トンチや言葉遊びであり、全く関係ありません。
“忌”の字から現在では「(死の穢れを)忌み嫌う」と考えてしまいがちですが、仏教では死は穢れではありません。
死を穢れとする思想は、神道と陰陽道の思想です。
“忌”という字は「己+心」で出来ています。「かけがえのない方をなくした月命日を機会に己の心を省みる」と考える方が自然です。
『初七日〜四十九日』にもあるように、追善供養ではなく、仏法にふれるご縁です。
命日から数えて100日目の法要です。
同じく追善供養の意味ではなく、仏法にふれるご縁の法要です。
以降、〇回忌法要となっていきます。